【小説】「うつし」 ~ その生き方が、誰かの未来を変えた~

プライベート 6月 11, 2025

第一章:「運命の出会い」

1989年、地方の製造会社・東京生産工業株式会社。従業員数約300名の中規模企業で、社内には独特の空気が流れていた。
この会社は、ワントップ体制——すなわち、ひとりの強いリーダーが全体をまとめるスタイルで成り立っていた。指導は厳しく、時に理不尽に感じることもある。しかし、その厳しさの裏には確かな経験と実力があることを、時間が経つにつれ誰もが理解していくのだった。

その年、22歳の原田修平は、この会社に入社する。
新聞の折り込み広告を見て、週休2日と休日日数が多いことに惹かれ、特に深い理由もなく応募した。彼の人生において、この仕事は「安定した収入」を得るためのもの。それ以上の期待はなかった。
しかし、数ヶ月後には、会社の空気が思っていたよりも重く、厳しい世界であることを知ることになる。

最初に彼が気になったのは、別部署の係長だった茂久田岳志
年齢は40代半ば、見るからに強面で、誰に対しても物怖じせずに意見をぶつけるタイプだった。とにかく言うべきことは言う。上司であろうが社長であろうが、納得がいかなければ食い下がる——それが岳志のスタイルだった。

修平は、そんな岳志のことが嫌いだった
「なんでこんな人間が出世するんだろう?」
そう思いながら、距離を置いていた。しかし、周囲の人間は岳志に対して意外にも親しげな態度を取ることが多かった。時折、冗談を交わし、軽口を叩いている姿も見られる。
「気に入った人間にはマイルドな対応をするらしい」
そう聞いた修平だったが、自分がその「気に入られる側」になることは、到底想像できなかった。

そんなある日、職場でちょっとした出来事が起こる。

残業が発生した際、会社は社員に夕食代の補助を提供していた。しかし、その金額には暗黙のルールがあり、「1000円以下の出前」しか注文してはならないという決まりがあった。
しかし、なぜか岳志の部署だけは1500円までOK
だった。

「え、なんで?」

同じ会社で働くのに、補助の額が違うことに修平は戸惑った。もし規則ならば全社共通のはず。もし例外ならば、誰が決めたのか。
そんな疑問を持った矢先、彼は岳志の動きを観察することになる。岳志が補助額の差を知っていたのか、それとも彼自身が差額を負担していたのかは不明だった。しかし、その場にいた社員たちは当然のように「岳志さんの部署は1500円まで大丈夫」と口にしていた。

この出来事をきっかけに、修平は岳志に対する興味を少しずつ持つようになる。

「もしかして、ただの厳しい人じゃないのか?」
「何か別の意図があって、この部署は特別な扱いを受けているのか?」

そうした疑問を持ちつつも、まだ岳志への反発の気持ちは消えていなかった。
この時点では、修平にとって彼は「ただの威圧的な上司」だったのだ——。

第2章:「厳しさの裏側」

修平が入社して一年が過ぎたころ、職場の雰囲気にはある程度慣れていた。しかし、変わらず「定時退社」が彼の信条であり、特にキャリアアップを考えているわけでもなかった。ただし、一つだけ変化があった。
それは、茂久田岳志という男の存在を意識せざるを得なくなっていたことだった。

岳志の影響力は会社内でも強く、関わりを持たざるを得ない場面が増えてきた。部長に昇進し、工場全体の生産を統括する立場となった彼は、次第に修平の業務にも干渉してくるようになった。
それは、外注管理に関する問題だった。

外注トラブルと岳志の指導

当時、会社では外部業者に一部の組み立て作業(ASSY)を委託していた。しかし、品質が安定せず、不良品が混入することが多かった。その都度、工場内での検品作業が増え、納期にも影響を及ぼしていた。
ある日、大量の不良品が納品され、現場は騒然とする。現場責任者として対応することになった修平だったが、まだ若く、経験も浅い。どう対処すべきか悩んでいたところに岳志が現れた。

「おい、これ、どうするつもりだ?」
その声は鋭く、現場の空気を一瞬で張り詰めた。

修平はしどろもどろになりながら答える。
「…えっと、外注先に連絡して、原因を調査してもらいます」

しかし、岳志は納得しなかった。
「それで済む話じゃないだろう。お前がその対応をしている間に、納品はどうする?この遅れ、どう巻き返す?」

冷静に聞けば当然の質問だった。しかし、その時の修平は、岳志の強い言葉に圧倒されていた。
「怒られる…」
そんな不安が先に立ち、言葉が出なかった。

岳志は鋭い目を光らせたまま、淡々と続ける。
「俺はな、こういう時に一番最初に考えるのは、”次にどうするか”だ。原因究明はもちろん必要だが、同時に対処案をすぐに出せ。それが仕事を前に進めるコツだ。」

修平はその言葉に強いプレッシャーを感じながらも、何かを考え始めた。
「確かに…。ただ調査するだけじゃ遅すぎる。何か別の方法で、納品遅れを取り戻す手段を…」
そして、ようやく口を開いた。
「…社内で一部を補填できませんか?」

岳志は、わずかに表情を変えた。
「それなら、すぐに人員を手配する。ただし、外注先には徹底的に指導しろ。改善しなければ、次のロットは止める。分かったな?」

この日を境に、修平は「ただ仕事をこなす」のではなく、「次の手を考える」ことの重要性を実感し始めた。

第3章:「激動の職場」

会社が経営の厳しさに直面し、人員削減の議論が活発化していた。受注件数は減少し、営業部の数字は目に見えて落ち込んでいた。経営陣は、この状況を乗り越えるために組織改革を検討し始める。

このタイミングで、営業本部長となった茂久田岳志は、冷静に数字を分析し、一つの問題に行き着いた。営業部長・城田康隆の手腕に疑問が生じていたのだ。

確かに城田の営業成績は下降していた。細かいミスも重なり、契約の交渉がうまく進まないことが増えていた。しかし、その背景にはもう一つの要因があった——それは社内の人間関係の歪みだった。

見えない力関係

城田の妻、佐藤玲奈は、社内で問題視される言動が増えていた。特に工藤美沙への態度は明らかに対立的で、業務外でも圧力をかける場面があった。美沙は岳志に相談する。

「最近、佐藤さんが…その…仕事のことで変に圧をかけてくるんです。」

岳志は眉をひそめた。彼は美沙を信頼していた。だが、この件を個人的な感情だけで判断するわけにはいかない。

そして経営の問題として営業部の改革を進める中で、城田の営業成績の低下が、組織全体の改善のために避けられない要因になっていることを、岳志は経営陣に報告した。

「城田はもう限界だ。営業部の立て直しのためにも、新しい体制が必要だ。」

この決定は、結果的に城田の退職へとつながった。しかし、それは岳志の個人的な感情ではなく、業務上の問題が重なった結果として導き出された判断だった。

しかし、この動きは社内に波紋を広げる。城田が退いたことで、玲奈は岳志への反感を強め、会社内部で新たな火種が生まれるのだった——。

第4章:「変わる関係性」

城田の退職を経て、社内の空気は大きく変わった。営業部の新体制が整えられ、少しずつ組織としての立て直しが図られていた。しかし、その影で、岳志の立場は決して盤石ではなかった。

営業部の改革を進める中で、社内の一部から「茂久田さんは独断的すぎる」という声が上がり始めていた。彼の決断は常に合理的ではあったが、それを支持する者と、反発する者がはっきり分かれていた。そして、その対立の中心に佐藤玲奈の存在があった。

玲奈は夫・城田の退職を「岳志の策略」と見ていた。そして、彼女の訴えは社長夫人である副社長の耳に届くこととなる——。

「岳志さんは、会社を私物化している。営業部の人事を勝手に決めているし、特定の社員と親密すぎる。」

この言葉が副社長の心を揺さぶった。彼女はもともと岳志の強引な経営スタイルを快く思っていなかった。それゆえ、この訴えに対し、強く共感した。そして、社長と副社長は、岳志を会社から排除する方向で動き始める。

修平の決断

そんな中、岳志に対する立場を明確にする者が一人いた。それが原田修平だった。

彼は最初、岳志を「嫌いな上司」として見ていた。しかし、時が経つにつれ、彼の行動には確かな裏付けがあることを知った。営業部長・城田の退職も、単なる個人的な感情ではなく、営業部の業績悪化が絡んでいたことを理解していた。

「岳志さんは確かに厳しいし、強引なところはある。でも、それが会社にとってプラスになるかどうかは、ちゃんと考えて決めている。」

修平は、岳志のもとで働いてきた経験を踏まえ、自ら社内の数名の社員と話し合い、彼を擁護する動きを見せた。岳志の独断的な面は確かにあるが、それが全て悪ではないことを伝えようとしたのだ。

しかし、その頃にはすでに副社長が動き始めていた——。

第5章:「決断と別れ」

社内の権力争いが激化し、副社長の動きにより、岳志は厳しい立場へと追い込まれていた。彼は冷静な判断を下してきたが、社長夫人である副社長が直接介入したことで、状況は急速に変化した。

「茂久田を排除する。」

そうした決定が、経営陣の間で静かに進められていた。彼の経営手腕を評価する者もいたが、同時に強引な進め方を批判する声も多かった。岳志にとって、会社は彼の人生そのものであり、仕事の成果こそが彼の生きる証だった。しかし、その地盤が揺らぎ始めていた。

そんなある日、彼は最後の決断を迫られる。

「茂久田さん、社長があなたに話があるそうです。」

重い空気の中で、岳志は社長室へ向かった。そこには副社長も座っており、冷静な表情で彼を見つめていた。

「岳志、お前には感謝している。しかし、この会社を動かす上で、君のやり方では限界がある。」

その言葉の背後にある意図を、岳志はすぐに理解した。

「退職してほしい。」

会社のために尽くしてきた彼にとって、これはあまりにも酷な決断だった。しかし、岳志はそれ以上何も言わなかった。彼は全てを悟ったかのように、静かに頷いた。

「分かりました。」

それが彼の最後の言葉だった。

新たな人生へ

会社を去った岳志は、長年心の中に押し込めていたものと向き合う時間を得ることになった。それは、自分の人生とは何だったのか、そしてこれからの生き方はどうあるべきなのかという問いだった。

彼は、仕事一筋で生きてきた。しかし、人生の最終章を迎えるにあたって、もう一つの選択をした。それは、美沙との結婚だった。

岳志はかつて恋愛を諦めていた。子供の頃の予防接種が原因で肝炎に感染し、それを理由に家庭を持つことを避けていた。しかし、美沙はそんな彼を受け入れていた。岳志は、この人生の最後の選択を胸に抱き、新たな生活を始めることになる。

しかし、その幸福な時間は長くは続かなかった。

数年後、岳志は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となる——。

第6章:「残された影響」

岳志の死は、社内にも大きな波紋を広げた。
彼の強い決断力と統率力は賛否両論だったが、それでも彼の存在は会社にとって重要な支柱だった。
厳しく、時には理不尽とも思える指導があったものの、それは「会社をより良くするため」という信念に基づいたものだった。

しかし、彼が去った後、会社はどうなったのか?

営業部は新たなリーダーを迎え、組織は彼の影響から脱しようとしていた。しかし、その試みは簡単なものではなかった。岳志のような強い意志を持つ人物がいなくなったことで、会社全体が方針を見失いがちになっていた

「結局、岳志さんがいたからこそ、みんながまとまっていたんだな…。」

修平は、社内の微妙な変化を感じながら、その存在の大きさを改めて認識することとなった。

修平の変化

岳志との関わりは、修平自身にも変化をもたらしていた。

かつての修平は、「定時退社こそ至上」と考え、仕事への熱意はさほどなかった。しかし、岳志とのやり取りを通じて、「仕事の本質は単なる時間の積み重ねではなく、いかに前向きに取り組むかで変わる」ということを学んだ。

そして、最終的に彼はこう思うようになった。

「いつか、俺も誰かに影響を与えられる存在になりたい。」

それは、岳志との時間がなければ生まれなかった感情だった。

第7章:「未来への継承」

岳志はもういない。しかし、彼が残したものは確かに存在していた。それは、言葉でも、業績でもなく、人々の生き方への影響だった。

修平は、かつて仕事を「金のための労働」としか考えていなかった。しかし、岳志と向き合うことで、仕事の持つ意味と、人と関わることの大切さを学んだ。そして、彼はある決断をする——。

「俺は、誰かに影響を与えられる人間になりたい。」

これまで、修平は上司からの圧力をただ受け流し、最低限の業務をこなしてきた。しかし、岳志を間近で見ていたことで、人を動かすことの難しさと価値を痛感した。彼の厳しさは単なる威圧ではなく、目的を持ったものだった。

「どうせ仕事しなきゃいけないなら、楽しくやった方がいいだろ。」

かつて岳志が言った言葉を、修平は何度も思い返した。それは、ただの楽観的な言葉ではなく、「自分の意志で働く」という哲学だったのだ。

修平は、これからの人生を見つめ直し、次のステップへと進む決意を固めた——。

岳志への最後の感謝

岳志は、自らの運命を受け入れ、最後の時まで真っ直ぐに生きた。その生き様は、賛否はあれど、確実に人々の記憶に刻まれた。

修平は静かに呟いた。

「あなたに出会えたことは、人生のプラスでしかありません。」

終章:鋼の指導者の軌跡

物語は終わり、しかし影響は終わらない。
岳志が残したものは、修平の生き方に刻まれ、これからも続いていく。

そして、彼の生き様は、また別の誰かの人生に影響を与えていくのだった——。

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